週刊あの馬は今!?


第15回:シーキングザパール
■牡 1994/04/16生れ
■血統
父シーキングザゴールド
母ページプルーフ(シアトルスルー)

■戦績
96年7月:小倉/新馬戦:1着
96年9月:新潟/新潟3歳S
96年10月:京都/デイリー杯3歳S:1着
96年12月:阪神/阪神3歳牝馬S:4着
97年1月:京都/シンザン記念:1着
97年3月:中山/フラワーC:1着
97年4月:東京/NZT4歳S/1着
97年5月:東京/NHKマイルC:1着
97年9月:阪神/ローズS:3着
98年4月:京都/シルクロードS:1着
98年5月:中京/高松宮記念:4着
98年6月:東京/安田記念:10着
98年8月:仏/モーリスドゲスト賞:1着
98年9月:仏/ムーランドロンシャン賞:5着
98年11月:京都/マイルCS:8着
98年12月:中山/スプリンターズS:2着
99年1月:米/サンタモニカH:4着
99年5月:中京/高松宮記念:2着
99年6月;東京/安田記念:3着

通算:19戦8勝(重賞7勝)。海外トレード後は含まず。
※馬齢は当時の表記です。

アメリカで生まれ、日本に輸入された外国産馬。当時、キーンランドのセリで主取りとなるも、この馬が気になっていた日本人オーナーがセリの後に厩舎を訪ね、購入を決めた。
デビューは96年夏の小倉。栗東・佐々木昌三厩舎からデビュー。武豊騎手を背に単勝1.2倍と断トツの人気に推される。スタートを決めると、スピードの違いを見せつけ、1200m戦ながら、7馬身の差をつける圧勝。
2戦目の新潟3歳Sではスタート直後に大きく体制を崩し、武騎手が落馬寸前になるほどの致命的な出遅れだったが、そこから驚異的な追い上げを見せ、3着に押し上げた。負けはしたものの、勝ち馬を上回るインパクトを残す。

新潟3歳Sのパフォーマンスが評価され、続くデイリー杯3歳Sでも単勝1.5倍の断然人気に推される。スタートを決めると、先行して、5馬身の差をつけ圧勝した。
2着にはまだ人気のなかったメジロブライトが追い込んできたレース。

続くG1・阪神3歳牝馬Sでも1.5倍の人気に推される。道中特に不利もなかったが、メジロドーベルがグイグイと伸びる中、全く伸びずに4着とムラのある面を見せて敗退。

年を明けて4歳になると、怒涛の快進撃を続ける。元々外国産馬にはクラシックの出走権が開放されていない時代だったこともあり、必然的に、春の目標はNHKマイルカップとなった。
シンザン記念ではブレーブテンダー、ダイタクヤマトらの牡馬を相手に3馬身差の勝利。
この後、調教師とオーナーの間でローテーションに対する意見の違いがあり、森秀行厩舎へと転厩する。
転厩初戦。距離を1800mに延ばしたフラワーCでも直線最速の上がりを使い追い込み勝利。
続くニュージーランドT4歳Sでもワシントンカラー、ブレーブテンダーらを抑えて快勝、重賞3連勝とした。

そして目標のNHKマイルカップ。芦毛の怪物と呼ばれたスピードワールドとの対決に期待が高まったが、スピードワールドが怪我のため回避。ここでも単勝2.0倍の1番人気に推された。
中団を進むと、直線では楽々と抜け出し、2着ブレーブテンダーに1.3/4馬身差をつけ重賞4連勝、G1初制覇を飾った。

秋は秋華賞を目標にローズSから始動。桜花賞馬キョウエイマーチを抑えて単勝1.4倍の断然人気に推されるも、2000mが長かったのか、キョウエイマーチの前に直線伸びずに3着に終わる。
その後は秋華賞へ向かう予定だったが、エントラップメントによりノドの手術を行うことになり、長期休養に入る。
復帰戦のシルクロードSは約7ヶ月ぶりのレースとなったが、マサラッキをクビ差抑えて優勝。
一叩きされた高松宮記念では能力を買われ1番人気に推されるも、馬場が渋ったこともあり、シンコウフォレストの4着。
その後は不良馬場の中行われた安田記念に出走するもタイキシャトルの10着に大敗する。

不得手の道悪での競馬が続き消化不良のまま春シーズンを終える。

夏には海外へ遠征。タイキシャトルも仏遠征をしていたこともあり、どちらかというと、タイキシャトルに海外G1制覇の期待がかかっていたが、シーキングザパールは8月9日に行われた仏G1・モーリスドゲスト賞に出走すると、レコードタイムで優勝。一足先に、日本調教馬初の欧州G1制覇を成し遂げた。
さらに仏G1・ムーランドロンシャン賞にも出走し5着に好走した。
なお、タイキシャトルも仏G1・ジャックルマロワ賞を制し、2頭の欧州G1ホースが誕生した。

帰国初戦のマイルCSでは同じく帰国初戦となったタイキシャトルも出走。タイキシャトルが悠々とした競馬で5馬身差の圧勝を見せたが、シーキングザパールは8着に敗退。

次走のスプリンターズSではそのタイキシャトルをマークする形でゴール寸前で捕らえるも、伏兵マイネルラヴを交わし切れずに2着。

6歳になると、アメリカへ遠征。初のダート戦となったG1・サンタモニカハンデキャップに挑戦し4着と健闘した。
帰国後は高松宮記念でマサラッキの2着、安田記念ではエアジハードの3着に好走した。

その後はアメリカの馬主にトレードされ、秋にアメリカでG3を2戦するも振るわず、そのまま引退。クレイボーンファームで繁殖入りした。

■引退後
アメリカで繁殖入りし、初年度はストームキャットが種付けされた。
その初子のシーキングザダイヤは日本に輸入され、デビュー2戦目から4連勝でニュージーランドTを制し、母子制覇を達成。続くNHKマイルCでも母仔制覇が期待されたが、7着に終わった。その後もG1で活躍を見せるが、G1・2着9回と遂にG1制覇は叶わなかった。
その後の2頭はアメリカで競走生活を送り、2004年は不受胎、2005年は流産だった。
そして、2005年、繋養先だったLane'sEndFarmで死亡。死因は感電死との説もあるが、不明。