週刊あの馬は今!?


第79回:サクラスピードオー
■牡 1993/3/25生れ
■血統
父サクラホクトオー
母サクラハッスル(マルゼンスキー)
川島正行厩舎

■戦績
95年10月:東京/新馬戦:2着
95年10月:東京/新馬戦:1着
95年11月:東京/府中3歳S:2着
95年12月:中山/ホープフルS:3着
96年1月:東京/京成杯:1着
96年2月:東京/共同通信杯:1着
96年4月:中山/皐月賞:7着
96年6月:東京/ダービー:5着
96年9月:中山/京王杯AH:5着
96年10月:東京/アイルランドT:4着
96年11月:京都/マイルCS:5着
96年12月:中山/スプリンターズS:8着
97年1月:中山/ニューイヤーS:1着
97年10月:京都/スワンS:12着
97年11月:東京/富士S:11着
97年12月:中山/スプリンターズS:13着
98年1月:中山/中山金杯:12着
98年2月:東京/東京新聞杯:15着
98年2月:東京/銀蹄S:13着
98年12月:門別:ぶるるん特別:9着
99年9月:船橋/日本テレビ盃:13着
99年10月:盛岡/南部杯:12着

通算22戦4勝(重賞2勝)

※馬齢は当時の表記です。

父は88年の朝日杯3歳Sを制したサクラホクトオー。境勝太郎厩舎からデビューするが、同師の定年引退により小島太厩舎へ移籍。その後は地方競馬へと移籍した。

デビュー戦は95年秋の東京開催。芝1400m戦に小島太騎手鞍上で3番人気での出走。後方から直線鋭く差を詰めたが、後にOPで活躍するチアズサイレンスの2着に敗れるも、続く折り返しの新馬戦を圧倒的1番人気に応え逃げ切り勝ちを収めた。

3戦目はOP特別・府中3歳S。単勝2.0倍の1番人気に支持されたが、勝ち馬バブルガムフェローに1馬身差及ばず2着に敗れた。

その後ホープフルSでも1番人気に支持されたがメイショウヤエガキの3着に惜敗し、3歳時は4戦1勝で終わった。

年明け初戦はG3・京成杯(芝1600)。朝日杯3歳S2着のエイシンガイモンに次ぐ2番人気での出走。2戦目で勝利した時と同様、好スタートから先手を奪うと、直線もしぶとく粘り、ユノペンタゴンの追い込みをハナ差抑えて逃げ切り勝ち。重賞初制覇を飾った。

続く共同通信杯4歳S。単勝1.9倍の圧倒的1番人気での出走。前走同様先手を奪うと直線も脚色は衰えず、4番人気エイシンコンカードに1.1/2馬身差をつけ逃げ切り勝ち。重賞2連勝とし、クラシック候補へと名乗りを挙げた。

トライアルは使わず、その後は皐月賞へ直行。
小島太騎手が2月で現役を引退したため、鞍上は横山典騎手に引き継がれた。
人気が予想されたバブルガムフェロー、ダンスインザダークが直前で回避する形になり、ロイヤルタッチが3.6倍で1番人気。サクラスピードオーは4.6倍で2番人気に支持された。
しかし、これまでと同じように逃げの先方を取るも直線力尽き、勝ち馬イシノサンデーから0.9秒差の7着に敗れた。

続くダービーは横山騎手が騎乗停止により蛯名騎手へと乗り替り4番人気と評価を落とした。いつものように先手を奪ってレースを作り、直線半ばまで粘ったが、最後は力尽き勝ち馬フサイチコンコルドから0.9秒差の5着に敗れた。

春のクラシックは距離も長かったこともありタイトルを手にすることができずに終わった。

秋はマイル路線に照準を切り替え京王杯AHで始動。
初の古馬相手も1番人気に支持されたが、好位から伸びあぐねクラウンシチーの5着に敗れた。

次走OP特別・アイルランドTは先団から直線差を詰めたが、ショウリノメガミの4着。

秋2戦結果の出せなかったサクラスピードオー。続くG1・マイルCSは9番人気に評価を落とした。
好位から流れに乗って直線も良く伸びたが勝ち馬ジェニュインから1/2+クビ+クビ+クビ差の5着に惜敗した。

暮れには初のスプリント戦となるG1・スプリンターズSに参戦。
5番人気での出走だったが、ペースについて行けずフラワーパーク、エイシンワシントンのデッドヒートから1.5秒離された8着に終わった。

古馬となって初戦はOP特別・ニューイヤーS。
ここで2番人気に支持されると、共同通信杯4歳S以来約11ヶ月ぶりの勝利を飾った。

久しぶりの勝利を挙げてさい先のよいスタートを切ったサクラスピードオー。しかしその後東京新聞杯へ向けて調整されていたが、骨折が判明する。

8ヶ月以上の休養を余儀なくされ、10月のスワンSで復帰するも、その後はまったくいいところなく、2桁着順を繰り返した。

5戦して復活の手がかりすら見えない中、6歳になったサクラスピードオーはダート戦に復活の望みを託し、銀嶺Sに出走。
初ダートながら3番人気に支持された。スタート後はスピードを活かして先行するも勝負所で反応がなくなると、勝ち馬セタノキングから3.8秒離され最下位13着に終わった。
なお、このレースには父サクラホクトオーと同期のミスタートウジン(13歳)も出走しており話題を集めた。

怪我から復帰して結果を残せず凡走を繰り返すと、その後中央での登録を抹消され、地方競馬へ移籍した。

しかし元々ダートに適正が高いわけでもなく、地方移籍後も敗戦を繰り返した。
7歳時には交流G1・南部杯にも出走したが、勝ち馬から9.3秒も離された最下位に敗退。
結局怪我の後は勝利を挙げることができず2000年5月に現役を引退した。

■引退後
引退後は残念ながら種牡馬になることはできず、北海道新和牧場で功労馬として繋養されることになった。
健康状態もよく、当時の気性の荒さも陰を潜め落ち着いた様子で繋養されている。

2012.2.13
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