■牡 1995/04/29生れ
■血統
父ブライアンズタイム
母パシフィカス(NorthernDancer)
■戦績
97年11月:京都/新馬戦:中止
97年12月:阪神/未勝利戦:8着
97年12月:阪神/未勝利戦:1着
98年1月:京都/つばき賞:4着
98年2月:京都/梅花賞:2着
98年3月:中山/弥生賞:12着
98年3月:中山/若葉S:3着
98年5月:東京/夏木立賞:2着
98年6月:中京/かきつばた賞:1着
98年7月:福島/ラジオたんぱ賞:1着
98年8月:京都/小倉記念:3着
通算:11戦3勝(重賞1勝)
※馬齢は当時の表記です。
兄に三冠馬ナリタブライアン、菊花賞馬ビワハヤヒデを持つ超良血馬。
デビューは3歳11月の京都。芝1600m戦を鞍上に武豊騎手を迎え出走。
血統のわりに評価はそれほど高くなく、3番人気。レースでは落馬競走中止という厳しい結果が待ち受けていた。
さらに次走の2000m戦でも見せ場なく8着に敗退。
初勝利はそこから距離を一気に600m短縮した暮れの阪神3歳未勝利戦。藤田騎手を新パートナーに迎え2番人気で出走。好位から積極的な競馬を見せると、2着マグマノイカリに1.1/4馬身差をつけ優勝。初勝利を挙げた。
偉大な兄たちの通ったクラシック戦線に乗るためにはここから負けられない競馬が続くが、500万特別を4,2着と落としてしまう。
その後1勝馬ながら挑んだ弥生賞では勝ち馬のスペシャルウィークから3秒以上も離されたブービーに終わる。
皐月賞へのラストチャンスとなった次走の若葉Sでは好位からしぶとい競馬を見せるも勝ったグリーンプレゼンスからクビ+1.1/2馬身差の3着に惜敗。
結局春のクラシック戦線に間に合うことはなかった。
その後は自己条件に戻り夏木立賞2着を挟み、6月の中京で2勝目を挙げる。
夏場も休むことなくレースに参戦。
3歳馬同士の"残念ダービー"ラジオたんぱ賞へ出走。
ディヴァインライト、メイショウオウドウが人気を集め、ビワタケヒデは4番人気だった。
ビワタケヒデは中団を追走。先行馬が淀みない流れで引っ張り、差し馬有利の展開となった。中団でじっくりと脚を溜めたビワタケヒデは、直線で抜け出し、後方から鋭い末脚で迫ったメイショウオウドウをクビ差抑えて優勝。春のクラシックでは活躍することができなかったが、偉大な兄たちに少し近づいた重賞初制覇となった。
次走は古馬との対戦となる小倉記念へ駒を進めた。単勝1.7倍の圧倒的1番人気に推されたが、中団から前を捕らえ切るまではいかず、勝ったテイエムオオアラシからハナ+3.1/2馬身差の3着。
それでも初の古馬相手に好走したことで、秋には菊花賞での3兄弟制覇に期待がかかった。
しかし、その後脚部不安を発症。
さらにその後、兄ナリタブライアンが急逝。競走成績では見劣るものの、全弟となる血統を買われ、種牡馬入りが決定する。
■引退後
引退後は荻伏・社台スタリオンステーション種牡馬入り。
血統は超一流だったが、現役時代の成績はもう一つだったこともあり、それほど多くの繁殖は集まらなかった。
02年に初年度産駒がデビューしたが、目立った活躍馬は出ていない。
中央ではブルーペール、ナムラカイソク、ダンスオブサロメ、サンマルセイコーが4勝を挙げたが、準オープン以上での勝ち星は挙げられなかった。
05年には種牡馬を引退。ノーザンホースパークで乗馬となることが決まった。
しかしその後、右半身に原因不明のマヒが襲い一時は生命の危機に立たされた。
一命は取り留めたものの、その影響で右目を失うことになってしまった。
右目は失ったもののその後体調は戻り、現在は新田牧場で功労馬として余生を過ごしている。