■牡 1992/04/28生れ
■血統
父サンデーサイレンス
母クルーピアレディー(WhatLuck)
■戦績
94年10月:東京/新馬戦:2着
94年10月:東京/新馬戦:1着
94年11月:東京/赤松賞:2着
95年1月:東京/セントポーリア賞:1着
95年3月:中山/若葉S:1着
95年4月:中山/皐月賞:1着
95年5月:東京/ダービー:2着
95年9月:中山/京王杯AH:2着
95年10月:東京/毎日王冠:6着
95年10月:東京/天皇賞・秋:2着
95年12月:中山/有馬記念:10着
96年3月:中山/中山記念:2着
96年6月:東京/安田記念:4着
96年10月:東京/天皇賞・秋:14着
96年11月:京都/マイルCS:1着
96年12月:中山/有馬記念:14着
97年6月:東京/安田記念:2着
97年8月:札幌/札幌記念:4着
97年10月:東京/毎日王冠:5着
97年10月:東京/天皇賞・秋:3着
97年11月:京都/マイルCS:9着
通算:21戦5勝(重賞2勝)
※馬齢は当時の表記です。
サンデーサイレンス初年度産駒の代表的1頭。デビュー前から調教師・ジョッキーら関係者からの評価が高かった。
デビューは3歳10月。岡部騎手を背に1番人気で出走したが、勝ち馬から1.1/4馬身差の2着に敗退。
続く折り返しの新馬戦では先手を奪うと、そのまま後続を寄せ付けず3馬身差をつける逃げ切り勝ち。2戦目で初勝利を挙げた。
朝日杯3歳Sを目標に500万特別・赤松賞で2勝目を狙うもコクトジュリアンの決め手に屈し1馬身半差の2着に敗れる。
その後、脚元に不安を発症したため、朝日杯は回避し、年明けに備えることになった。
なお、この年の朝日杯3歳Sを制したのは、同じくSS産駒のフジキセキだった。
年明けの500万条件・セントポーリア賞で2勝目を挙げる。
続く皐月賞トライアル・若葉Sでは同じSS産駒のタヤスツヨシに人気を譲り、2番人気。雨の降る不良馬場でのレースで得意とはいえない条件であったこともあり、先手を奪ったルイジアナボーイとの差を詰めることが出来ず5馬身差の2位入線であった。しかし、1位入線のルイジアナボーイがスタート後に他馬の走行を妨害したため、8着に降着。ジェニュインは繰り上がり1着となり、皐月賞への出走権を獲得した。
一方のタヤスツヨシはそのルイジアナボーイの不利を受け、5着に終わった。
この年の皐月賞では絶対的本命と見られていたフジキセキのリタイヤ、スプリングSを勝ち、有力視されていたナリタキングオーの直前回避と有力馬が相次いで回避した。
その中、ジェニュインは3番人気で出走。1番人気は毎日杯を勝って挑んだダイタクテイオー、2番人気は弥生賞2着のホッカイルソーだったように混戦模様であった。
しかし、ジェニュインはスタートよく2番手を追走すると、直線抜け出し、後方から追い込んだタヤスツヨシをクビ差抑えて優勝。
重賞初勝利がG1の舞台となった。
ダービーではタヤスツヨシが3.1倍の1番人気、ジェニュインが3.5倍の2番人気だった。
ジェニュインは皐月賞同様、好位2,3番手を追走。直線抜け出し2冠制覇を狙ったが、後方追走から上がり最速の34.5秒の末脚で追い込んだタヤスツヨシに1馬身半差をつけられ2着に敗れた。
真面目に走りすぎる性格から適距離を中距離に定め、秋は菊花賞ではなく、天皇賞を目標としたローテーションが組まれた。
始動戦は京王杯AH。古馬に混じり1番人気に推されたものの、ドージマムテキにアタマ差競り負け2着に敗退。
それでも初の古馬を相手に互角に渡り合ったことが評価され、続く毎日王冠でも1番人気に推された。しかし、いつもよりやや後ろからの競馬となると、直線も伸びあぐね、デビュー以来初めて掲示板を外す6着に敗れた。
天皇賞・秋では怪我から復帰したナリタブライアンが1番人気と注目を集め、ジェニュインは4番人気だった。
やや評価を落としたものの、好位2番手からの積極的なレースを見せると、後方から追い込んだサクラチトセオーのハナ差2着に好走した。
その後は暮れの有馬記念へ。3番人気で出走するも、同じ4歳馬マヤノトップガンの逃げ切りの前に10着と大敗する。
敗因は「強い風を気にした」というエピソードも有名。
古馬となったジェニュインは春の目標を安田記念に置き、中山記念で始動。
1番人気で出走するも、サクラローレルの圧倒的な末脚の前に1.3/4馬身差の2着に終わる。
安田記念では岡部騎手がタイキブリザードに騎乗したため、鞍上は若葉S以来の田中勝騎手に。
ヒシアケボノがマイペースで逃げる展開で懸命に差を詰めるも古豪・トロットサンダー、タイキブリザードの前にもう1歩足りず4着に敗れた。
秋は、天皇賞・秋で4ヶ月ぶりの出走となったが、中団からまったく伸びずバブルガムフェローの14着に大敗。
しかし、天皇賞を叩いて明らかに状態の上がってきたジェニュインは次走のマイルCSで1番人気に推された。鞍上は岡部騎手に戻った。
そして、4,5番手の好位から直線抜け出すと、ショウリノメガミの追い込みを半馬身差抑えて優勝。天皇賞大敗から見事巻き返し、G1・2勝目を挙げた。
その後は昨年の借りを返すべく有馬記念に参戦。しかし、前走G1勝ちとはいえ、マイル戦だったこと、前年の大敗もあり、10番人気と評価は低かった。
岡部騎手がロイヤルタッチに騎乗したため、ペリエ騎手が代打騎乗。
+14キロの馬体重もあったが、好位追走から徐々に順位を下げると、直線では大きく下がり、最下位14着に敗れた。
さらにレース後に骨折が判明し、長期休養に入ることに。
復帰はG1・安田記念。有馬記念最下位以来のレース、骨折明けと不利な条件が揃ったが、得意のマイル戦ということもあり、5番人気に支持された。
この年も岡部騎手がタイキブリザードに騎乗したため、鞍上は田中勝騎手。
レースはその岡部騎手騎乗のタイキブリザードとのマッチレースとなったが、クビ差競り負け2着。
それでもG1・2勝馬の意地を見せることはできた。
その後は、夏場に札幌記念に出走し4着、毎日王冠では武豊騎手とのコンビで注目を集めるも5着、天皇賞・秋ではエアグルーヴの3着と堅実に走るも勝ち切れない競馬が続いた。
そして、連覇を狙ったマイルCS。衰えの見え始めたジェニュインに対する評価は高くなく、4番人気で出走。勝ったタイキシャトルから8馬身以上離された9着に敗れると、そのレースを最後に引退が決まった。
■引退後
引退後は社台スタリオンステーションで種牡馬入り。父サンデーサイレンスの大成功もあり、後継種牡馬として需要も高かった。
初年度には122頭に種付けを行い、その後も100頭以上の繁殖を集める人気が続いた。
00年にはレックススタッドへ移動。
翌01年にはシャトル種牡馬としてオーストラリアで種付けも行った。オーストラリアでの評判は高く、04年まで種付けを行った。
一方で01年には初年度産駒がデビュー。2年目の産駒からは小倉2歳Sを制したメイプルロオードが出たが、それ以外に目立った活躍をする馬は出なかった。
しばらく活躍馬を輩出できなかったジェニュインだが、04年デビュー世代からドンクールを出した。新馬戦から500万条件、OP特別2勝、兵庫CSまで無傷の5連勝で重賞を制し、その後も名古屋大賞典を勝つなどダート戦線で活躍。海外ではニュージーランド産のPompeiiRulerが豪G1・オーストラリアンカップを制すなどの活躍を見せた。
ドンクールの活躍により05年には140頭を超える種付け数を記録したものの、続く活躍馬を出せずに需要は減少。
2009年には1桁まで種付け数が減り、現在は種牡馬として供用されず新田牧場で繋養されている。