■牡 1994/5/22生れ
■血統
父クリスタルグリッターズ
母アテナトウショウ
半弟アサクサキャノン(父ノーザンディクテイター)
90年セントライト記念2着
■戦績
96年11月/阪神新馬戦:3着
96年12月/阪神新馬戦:4着
97年3月/阪神未勝利戦:1着
97年4月/君子蘭賞:2着
97年4月/ムーニーバレーRC賞:1着
97年5月/プリンシパルS:2着
97年6月/ダービー:7着
97年7月/さくらんぼS:1着
97年9月/神戸新聞杯:1着
97年10月/京都新聞杯:1着
97年11月/菊花賞:1着
98年5月/金鯱賞:6着
98年6月/鳴尾記念:8着
98年12月/有馬記念:13着
99年2月/京都記念:2着
99年3月/マイラーズC:11着
99年4月/大阪杯:2着
99年5月/天皇賞(春):7着
99年7月/宝塚記念:5着
99年8月/札幌記念:7着
00年5月/金鯱賞:10着
00年6月/宝塚記念:8着
通算:22戦6勝(重賞3勝)
※年齢表記は当時のものです。
デビューは3歳11月。2番人気に推され3着。勝った馬は後の桜花賞馬キョウエイマーチでダート1200m戦にも関わらず、後続に1.7秒差をつける大楽勝を許す。
当時は折り返しの新馬戦が存在したが、ここも4着に敗れ、一息入れられる。
初勝利は4歳の3月、3戦目となった。その後は500万を突破しダービートライアル、プリンシパルSに駒を進める。あのサイレンススズカが勝ったレースだ。サイレンスもまだ春の時点では完成されておらず、抑える競馬でちぐはぐとした内容。マチカネフクキタルも完成前だったわけだが、クビ差まで詰め寄り2着。ダービー出走権を確保した。ちなみに、このレースの1番人気は皐月賞で2番人気に推された(6着)ランニングゲイルだった。
出走権は確保し臨んだダービーは勝つには至らなかったものの、勝ったサニーブライアンから0.5秒差7着と、力をつけてきているところを見せた。
夏場は休みを入れずに福島へ遠征。武豊騎乗ということもあり、1.4倍の断然人気に推され、2着シャコーテスコに3馬身差をつける快勝。秋に期待を抱かせる好内容だった。
狙いを菊花賞に定めると、秋は9月の神戸新聞杯で始動。先行したサイレンススズカが快ペースで飛ばし、直線半ばで大差をつけ圧勝かと思われたその時、外から豪快に追い込んだ。ゴール寸前で交わすと、あっという間に1.1/4馬身差をつけゴールした。マチカネフクキタルの圧倒的な末脚が目立つレースだったが、サイレンススズカも鞍上が直線半ばで勝利を確信し追うのを止めていたこともあり、話題となった。上村騎手にすれば、成長途上のサイレンスを思い、負担をかけないレースをしようと思うあまりの騎乗ミスであったわけだが、結果がすべて。その後上村騎手がサイレンスに騎乗することはなかった。
さて、神戸新聞杯を勝ったマチカネフクキタルは続けて菊花賞トライアルの京都新聞杯にも出走。皐月賞、ダービーで1番人気に推されたメジロブライトが強敵だったが、勢いが違った。中団から抜群の瞬発力で伸びると、2着パルスピートに3/4馬身差をつけ重賞連勝。
トライアルを連勝して臨んだ本番、菊花賞では短距離向きの血統背景が懸念され、3番人気にとどまる。しかし、3連勝と勢いにのるマチカネフクキタルの末脚に距離は関係なかった。スローペースということも味方したが、上がり3F33.9秒の瞬発力を見せ、見事にクラシック最後の1つを手に入れた。
古馬になってからのさらなる飛躍が期待されたが、その後は裂蹄などに悩まされ、順調にレースを使うことができなかった。5歳春は金鯱賞、鳴尾記念で6、8着と敗退。宝塚記念を使うことなく休養。暮れにはぶっつけで有馬記念に挑む。岡部騎手が騎乗するということで5番人気に推されるもグラスワンダーから大きく離され13着に大敗。
6歳春には京都記念、大阪杯で2着と好走するも、そこまで。
7歳の宝塚記念で8着に敗退すると、レース後に屈腱炎を発症。ここまでの戦跡、年齢を考えると、事実上、引退しか道はなかった。
■引退後
最後は4歳秋の勢いはまったく見られず、種牡馬となるも、当時の馬主、細川氏が個人で所有する種牡馬としてレックススタッドで供用された。
初年度種付け頭数は20頭と少なく、以降も減り続け、04年には1頭のみに。その後も2,1,1,1頭と増えることはなく、2010年度はついに0頭。そして先日、6月に種牡馬引退が発表された。
■産駒
少ない産駒ながら、JG1・中山グランドジャンプ2着のリワードプレザンを輩出した。
■現在
馬主の細川氏は死去したが、種牡馬引退後は、BTC軽種馬育成調教センターが実施している「引退名馬繋養展示事業」の助成を受け、功労馬として山梨県の小須田牧場で余生を送る。