■牡 1994/04/19生れ
■血統
父メジロライアン
母レールデュタン(マルゼンスキー)
半弟メジロベイリー(朝日杯3歳S)
■戦績
96年8月:函館/新馬戦:1着
96年9月:函館/すずらん賞:2着
96年10月:京都/デイリー杯3歳S:2着
96年12月:阪神/ラジオたんぱ杯3歳S:1着
97年2月:東京/共同通信杯4歳S:1着
97年3月:中山/スプリングS:2着
97年4月:中山/皐月賞:4着
97年6月:東京/ダービー:3着
97年10月:京都/京都新聞杯:3着
97年11月:京都/菊花賞:3着
97年11月:中山/ステイヤーズS:1着
98年1月:中山/AJCC:1着
98年3月:阪神/阪神大賞典:1着
98年5月:京都/天皇賞・春:1着
98年7月:阪神/宝塚記念:11着
98年10月:京都/京都大賞典:2着
98年11月:東京/天皇賞・秋:5着
98年12月:中山/有馬記念:2着
99年1月:京都/日経新春杯:1着
99年3月:阪神/阪神大賞典:2着
99年5月:京都/天皇賞・春:2着
99年10月:京都/京都大賞典:2着
99年10月:東京/天皇賞・秋:11着
99年12月:中山/有馬記念:5着
00年10月:京都/京都大賞典:8着
通算:25戦8勝(重賞7勝)
※馬齢は当時の表記です。
メジロライアン初年度産駒の代表馬。同馬の同期には同じくメジロライアン産駒の牝馬メジロドーベル、牡馬ではOPで活躍したエアガッツがいる。
本馬のデビューは夏の函館。千田騎手を背に6頭立て6番人気という低評価での出走だったが、後方から一気に末脚を伸ばし優勝。単勝58.9倍の大穴を開けた。
芝の1800m戦だったが、勝ちタイムは2.01.6と2000m戦かと思わせるような遅い勝ち時計だった。
続くすずらん賞は2着に敗れたが、3戦目から松永幹夫騎手へと乗り替わり。以降クラシックを共にすることになる。
デイリー杯3歳Sではまたしても7番人気と低評価であったが、後に海外G1も制したシーキングザパールの2着に入る。
その後は距離適正が考慮され、暮れの2000m戦、ラジオたんぱ杯3歳Sへと向かうことになる。
後方からレースを進め徐々に進出すると、ブレーブテンダーに2馬身差をつけ完勝。重賞初制覇を飾る。
年明けは共同通信杯4歳Sで始動。ここでは前走の勝ちが評価され、単勝1.6倍の1番人気に支持される。
いつものように後方からレースを進めると、東京競馬場の長い直線をフルに使い、上がり34.8の末脚で追い込む。ゴール前セイリューオーをきっちりと3/4馬身差とらえ1着。重賞2連勝とし、クラシkックの本命に名乗り出た。
続く皐月賞トライアルのスプリングSでは単勝1.4倍に推され、どのような勝ち方を見せるのかに注目が集まった。しかし、積極的な競馬を仕掛けたビッグサンデーに3/4馬身差届かず、2着に敗退してしまう。ここからは、まさに惜敗続きとなる。
皐月賞では逆転を信じたファンは1番人気に支持した。しかし、前走同様直線の短い中山コースではメジロブライトの追い込み脚質は厳しく、最速の上がりを使うも、逃げたサニーブライアンらを捕らえることが出来ず、4着に敗退する。
ダービーではその自慢の末脚を発揮する絶好の舞台、東京競馬場ということもあり、またしても1番人気に支持された。
しかし、後方から徐々に差を詰めて追い込むも、またしてもサニーブライアンの逃げの前に追い込み届かず3着に終わる。
夏場を休養し、秋は菊花賞トライアル京都新聞杯から始動。上り馬マチカネフクキタルに人気を譲り、2番人気での出走。休み明けということもあり、春のレースを見るかのような展開で追い込み届かず3着に敗れる。
菊花賞では京都大賞典を勝って挑むシルクジャスティスに次ぐ2番人気での出走。いつものように後方からレースを進め、直線の爆発に賭けたが、前走敗れたマチカネフクキタルの前にまたしても屈し、3着。
クラシックは4,3,3着と惜敗続きで終わることになる。
次走はG2・ステイヤーズSに決まった。鞍上はそれまでパートナーを組んできた松永幹夫騎手から河内騎手へと乗り替わりとなった。
普段よりもやや前目の位置でレースを進めると、4角手前から捲くって進出。直線では独走状態となり、2着アドマイヤラピスに1.8秒もの大差をつけ圧勝した。
その後は有馬記念には出走せず、年明けのレースに備えた。
1月のAJCCで始動すると、前走の勢いそのままに2馬身半差の快勝。
阪神大賞典では前年のナリタブライアンvsマヤノトップガンを彷彿とさせるような内容でシルクジャスティスとの一騎打ちをハナ差制して重賞3連勝を達成。
いよいよ悲願のG1制覇が近づいた。
迎えた春の天皇賞。一叩きされたシルクジャスティスに1番人気は譲るが、レースは中団から一気に抜け出す横綱相撲で2着ステイゴールドに2馬身差をつけ快勝。G1初制覇を遂げた。
重賞4連勝として挑んだ宝塚記念では、ゲート内で立ち上がるアクシデント。外枠発走となったが、見せ場なく11着に惨敗してしまう。
秋初戦の京都大賞典はセイウンスカイの2着。
天皇賞・秋には快速馬サイレンススズカが圧倒的人気で出走していた。メジロブライトも2番人気に推されてはいたが、オッズは8.4倍と、多くの人がサイレンススズカの勝利を疑わなかった。
しかし、サイレンススズカは4角で故障を発生。サイレンスを意識していつもより早めのスパートをかけたメジロブライトだったが、直線伸びを欠き、オフサイドトラップの5着に終わる。
続く有馬記念ではグラスワンダーの復活劇の前に及ばず2着。
しかし、天皇賞・春でのG1制覇を含む重賞3勝が評価され、最優秀父内国産馬に選出された。
翌年は日経新春杯で始動。エモシオンをクビ差抑えて優勝し、久々の勝利を挙げる。
しかし、続く阪神大賞典、天皇賞・春ではスペシャルウィークの前に2着に敗れ、天皇賞・春連覇はならなかった。
宝塚記念はパスし、京都大賞典で始動。ここもツルマルツヨシの2着となり、3戦連続2着。
その後は天皇賞・秋11着、有馬記念5着と凡走してしまう。
翌年も現役続行となったが、屈腱炎を発症。
長期休養に入り、秋の京都大賞典で10ヶ月ぶりに復帰するも8着に敗退。レース後、屈腱炎が再発したため、引退を余儀なくされた。
■引退後
00年に引退後は、種牡馬入り。
初年度こそ91頭に種付けしたが、受胎率の低さもあり、2年目には30頭、3年目にはわずか12頭と年々その数を減らしてしまった。
03年にはビッグレッドファームへと移籍。04年の種付け頭数が32頭へと増えたが、その年の春、心臓発作で急死した。
07年には産駒のマキハタサイボーグがステイヤーズSを制し、父子制覇を果たしている。
ただし、マキハタサイボーグはセン馬のため、種牡馬にはなれない。その他には目立った活躍馬が出ていないため、メジロブライトの血を残すことは難しい現状となっている。