■牡 1992/03/18生れ
■血統
父WildAgain
母ドーンズヘイロー(Helo)
■戦績
94年8月:札幌/新馬戦:2着
94年8月:札幌/新馬戦:1着
94年10月:阪神/デイリー杯3歳S:2着
94年11月:京都/京都3歳S:2着
94年12月:阪神/ラジオたんぱ杯3歳S:2着
95年2月:東京/共同通信杯:1着
95年3月:中山/スプリングS:1着
95年4月:中山/皐月賞:取消
95年5月:東京/ダービー:11着
95年9月:京都/神戸新聞杯:10着
95年10月:京都新聞杯:1着
95年11月:京都/菊花賞:7着
96年2月:京都/京都記念:4着
96年3月:中山/中山記念:5着
96年6月:中京/金鯱賞:8着
96年10月:東京/天皇賞・秋:15着
96年11月:京都/マイルCS:11着
97年5月:中京/金鯱賞:4着
97年6月:阪神/鳴尾記念:6着
97年7月:阪神/宝塚記念:12着
97年8月:札幌/札幌記念:12着
98年1月:京都/京都金杯:16着
98年2月:京都/すばるS:14着
98年2月:阪神/大阪城S:1着
98年3月:中京/中京記念:15着
98年5月:新潟/新潟大賞典:12着
98年10月:大井/グランドチャンピオン:12着
98年11月:船橋/京成盃グランドマイラーズ:12着
98年12月:浦和/埼玉新聞杯:8着
99年1月:船橋/報知グランプリカップ:13着
中央通算:29戦5勝(重賞3勝)
※馬齢は当時の表記です。
父WildAgainは第1回BCクラシックの優勝馬で、同馬は持込馬。
同じ馬主の3冠馬ナリタブライアンが前年に活躍しており、96年シーズンもこの馬がクラシック戦線を沸かせた。
デビュー戦は94年夏の札幌。初戦は横山典騎手が騎乗。単勝1.8倍ながら2着に惜敗し、2戦目、折り返しの新馬戦で初勝利を上げる。
デイリー杯3歳Sは逃げたマキシムシャレードを半馬身捕らえ切れなかったが、2着に好走。
続く京都3歳Sでは単勝1.5倍の1番人気に推されたが、スキーキャプテンとの追い比べにクビ差及ばずここでも2着に惜敗。
その後はラジオたんぱ杯3歳Sへ。武豊騎手との新コンビで出走。2番手からの積極的なレースを試みるも、2番人気タヤスツヨシの末脚にハナ差屈、3戦連続の2着で3歳シーズンを終わる。
4歳になり、始動戦共同通信杯では南井騎手とのコンビを結成。ナリタ+南井騎手のコンビで前年の共同通信杯を勝ってクラシック3冠を達成したナリタブライアンを髣髴とさせた。また、このレースからシャドーロールを装着し、さらに期待が高まった。
前走のラジオたんぱ杯3歳Sで敗れたタヤスツヨシに人気は譲ったが、果敢に先手を取ると、そのままタヤスツヨシに3馬身差をつけ逃げ切り、重賞初制覇を遂げた。
続くスプリングSでも不良馬場をものともせず、道中中ほどから先頭に踊り出ると、そのまま押し切り、2着フライトスズカに1/2馬身差をつけ優勝。重賞2連勝とした。
朝日杯3歳Sを優勝し、この年のクラシック戦線で圧倒的と思われていたフジキセキのリタイアにより、ナリタキングオーが皐月賞の最有力候補に挙げられた。
しかし、皐月賞前日に骨膜を発症し出走を取消し。これでリズムが狂ってしまう。なお、勝ったのは、ジェニュイン、2着はタヤスツヨシだった。
なんとかダービーには間に合ったものの、スプリングS以来のレースではいかにも厳しく、タヤスツヨシの11着に惨敗してしまう。
結局、春シーズンは消化不良のまま終わり、秋にかけること。
秋は神戸新聞杯で始動するも10着に敗退。
これで評価を落とし、続く京都新聞杯では4番人気。南井騎手が前日のレースで負傷したため、藤田騎手と初コンビを組むことになった。
レースは好位からの積極的な競馬で、上り馬マヤノトップガンの追撃をクビ差抑えて重賞3勝目を挙げた。
復活Vで人気を集めた菊花賞。牝馬ながら参戦したダンスパートナーに次ぐ2番人気での出走となった。しかし距離も長かったか、7着に敗退。勝ったのは前走で負かした田原成貴騎乗のマヤノトップガンだった。
そのマヤノトップガンは続く有馬記念も制し年度代表馬に選出、翌年以降も大活躍した。それとは対照的にナリタキングオーは古馬になってから不振を極めた。
京都記念で始動するも4着、次走の中山記念も5着と掲示板を確保するのが精一杯。
秋には天皇賞にぶっつけで出走するも15着、続くマイルCSでも11着と大敗を続けてしまう。
結局5歳シーズンは5回走って京都記念の4着が最高という結果。
翌年は金鯱賞で始動し4着。続く鳴尾記念で6着とした後、G1・宝塚記念に出走し12着。
その後は2桁着順を繰り返し6歳シーズンも終了。
完全に"終わって"しまったかに思われたナリタキングオーだったが、7歳になり初めて使われたダートののすばるS14着を経て使われた大阪城Sで復活。先手を取ると、そのまま最速の上がりを使い2着テイエムトップダンに2馬身半差をつけ逃げ切った。
京都新聞杯以来2年4ヶ月ぶりの勝利だった。
大阪城Sでは展開がはまったが、結局その後はまた2桁着順を繰り返し、新潟大賞典12着を最後に地方へ転厩。
しかし、ダートも合わず、4戦して2戦は最下位、残りの2戦もブービーとまったくいいところなく、99年報知グランプリカップを最後に現役を引退した。
■引退後
重賞3勝を挙げたものの、結局G1には手が届かず種牡馬になることはできなかった。
地方競馬教養センターで騎乗実習馬として教養されることになった。
その後は骨折もあり、消息不明となっている。