週刊あの馬は今!?


第21回:オフサイドトラップ
■牡 1991/04/21生れ
■血統
父トニービン
母トウコウキャロル(ホスピタリテイ)

■戦績
93年12月:中山/新馬戦:2着
93年12月:中山/新馬戦:2着
94年1月:中山/未勝利戦:1着
94年1月:東京/セントポーリア賞:1着
94年3月:中山/若葉S:1着
94年4月:中山/皐月賞:7着
94年5月:東京/ダービー:8着
94年7月:福島/ラジオたんぱ賞:4着
94年12月:中山/ディセンバーS:3着
95年1月:中山/金杯:8着
95年2月:東京/バレンタインS:1着
95年12月:中山/ディセンバーS:3着
96年11月:東京/富士S:4着
96年12月:中山/ディセンバーS:3着
97年1月:中山/AJCC:4着
97年2月:東京/東京新聞杯:3着
97年3月:中山/中山記念:2着
97年4月:中山/ダービー卿CT:2着
97年5月:京都/都大路S:3着
97年5月:東京/エプソムC:6着
98年3月:中山/東風S:2着
98年4月:中山/韓国馬事会杯:2着
98年5月:新潟/新潟大賞典:2着
98年6月:東京/エプソムC:3着
98年7月:福島/七夕賞:1着
98年8月:新潟/新潟記念:1着
98年11月:東京/天皇賞(秋):1着
98年12月:中山/有馬記念:10着

通算28戦7勝(重賞3勝)
馬齢は当時のの表記です。

後のリーディングサイアーであるトニービン2世代目の産駒。
93年の暮れにデビューを迎え、初勝利までに3戦を要したものの、3戦目の未勝利戦を1番人気に応えて逃げ切ると、続くセントポーリア賞も制して2連勝。
続く若葉Sでは評判馬エアダブリンらを抑えて見事1番人気に応え優勝。
3連勝とし、一躍クラシックで注目を集めることとなった。

しかし、この年のクラシックの主役は怪物ナリタブライアン。さすがにここでは歯が立たずに皐月賞7着、ダービー8着と敗退する。

次走のラジオたんぱ賞ではタイキブリザードに次ぐ2番人気に支持されるも4着に敗退。

さらには右前脚に屈腱炎を発症し、休養入り。ここからは怪我との長い戦いが始まる。

約半年後となる暮れのディセンバーSで復帰。素質を評価され1番人気に推されるもナカミアンデスの3着。

金杯も1番人気に推され、重賞初制覇の期待がかかったが、マイネルブリッジの8着に敗退。

続くバレンタインSで約11ヶ月ぶりの勝利を挙げたが、またしても屈腱炎を発症。さらには左前脚にも不安が生じ、再度の休養に入る。

復帰は前年同様OP特別のディセンバーSで2年連続の3着。

ここからというところだったが、患部は安定せず、次走は翌秋の富士Sまで延びてしまう。
休養を挟みながらも大崩れすることなく好走。
富士Sから8戦をコンスタントに使われるが、2着3回、3着2回、4着2回、6着1回と前線止まり。脚元の様子を見ながらの調教でもあり、勝ち切れない競馬が続いた。

エプソムC6着後はまたしても屈腱炎が再発。7歳という年齢もあり、引退も健闘されたが、高い資質が買われ現役を続行。3度目の長期休養に入った。

復帰は約10ヶ月を要し、8歳となった東風S。長期休養明け、8歳という年齢もあったが、2番人気2着に善戦。
続く韓国馬事会杯も2着、新潟大賞典2着、エプソムC3着と休養前同様、勝ち切れないレース。

次走の七夕賞では、24戦中22戦で手綱を取った安田富男騎手から当時の関東リーディングであった蛯名騎手に乗り替わりとなった。2番人気で出走。後方から脚を溜めると、直線メンバー中NO1の上がりを使い、逃げ粘るタイキフラッシュをクビ差捕らえ優勝。
95年2月のバレンタインS以来約3年半ぶりとなる勝利を飾った。

続く新潟記念では1番人気に推されると、またも上がり最速で追い込み、ブラボーグリーンをハナ差捕らえて優勝。重賞連勝を飾った。

度重なる故障を乗り越え、ついにダービー以来となるG1の舞台へと舞い戻る。
2000mで重賞連勝していた同馬にとって東京2000mが舞台となる天皇賞(秋)は絶好の舞台だった。
しかし、この年は、単勝1.2倍と圧倒的人気を背負ったサイレンススズカが出走。
その他にもメジロブライト、シルクジャスティスなどの強豪も出走していたため、6番人気にとどまる。
また、蛯名騎手がステイゴールドに騎乗したため、鞍上は柴田善騎手にスイッチされた。
サイレンススズカが軽快にハイスピードで逃げを打つ展開。オフサイドトラップは大きく離れた3番手を追走していた。
そして4コーナー。"沈黙の日曜日"が待っていた。
サイレンススズカが故障を発生しずるずる後退すると、一気に押し上げてきたのがオフサイドトラップだった。本命馬が散った直線コースを一気に突き抜けると、追い込んだステイゴールドを1.1/4馬身差抑えて優勝。悲願のG1制覇を遂げた。高齢馬がそれほどコンスタントに活躍する時代ではなかった当時において、史上初の8歳馬による天皇賞制覇となった。
柴田善騎手のレース後のコメント「笑いが止まらない」はあまりにも有名か。

その後、グランプリ有馬記念10着を最後に現役を引退する。

■引退後
引退後は、門別ブリーダーズスタリオンステーションで種牡馬入り。
1年目こそ60頭ほどの交配数を集めたが、SS系種牡馬が全盛となったこともあり、その後はそれほど交配数を集めることができなかった。
また、2002年にデビューした初年度産駒は中央で勝利を挙げることができず、地方で4勝をしたに留まった。
この結果を受け、元々血統的背景がよいわけでもなかったこともあり徐々に種付け数は減少。2002年には12頭、2003年にはわずか5頭の交配にとどまり、早々に種牡馬引退となってしまった。
種牡馬引退が決まった後の2003年7月にリュウハヤテが函館3歳未勝利で産駒の中央初勝利を挙げると、同日に今度はコスモウェンブリーが福島3歳未勝利で勝利と、1日に2勝を挙げた。
その後、リュウハヤテは500万下も勝ち2勝を挙げたが、現時点での産駒の中央での勝利はこの3勝のみとなっている。

種牡馬引退後は日高ケンタッキーファームで功労馬として繋養される。
その後、2008年に同ファームが閉鎖したため、現在は新冠町の明和牧場で繋養されている。