週刊あの馬は今!?


第39回:ランニングゲイル
■牡 1994/03/02生れ
■血統
父ランニングフリー
母ミルダンス(MillReef)

■戦績
96年8月:函館/新馬戦:8着
96年8月:函館/新馬戦:中止
96年9月:函館/未勝利:7着
96年9月:函館/未勝利:5着
96年10月:京都/未勝利:1着
96年10月:京都/黄菊賞:2着
96年11月:京都/京都3歳S:1着
96年12月:中山/朝日杯3歳S:4着
97年1月:京都/若駒S:2着
97年3月:中山/弥生賞:1着
97年4月:中山/皐月賞:6着
97年5月:東京/プリンシパルS:3着
97年6月:東京/ダービー:5着
98年4月:阪神/大阪杯:7着
98年4月:京都/オーストラリアT:8着
98年6月:中京/テレビ愛知OP:2着
98年7月:福島/七夕賞:14着
98年9月:札幌/道新杯:1着
98年10月:東京/毎日王冠:7着
98年11月:東京/天皇賞・秋:7着
98年11月:京都/マイルCS:11着
98年12月:中京/愛知杯:5着
99年1月:京都/京都金杯:9着
00年5月:京都/都大路S:15着

中央通算:24戦4勝(重賞1勝)

※馬齢は当時の表記です。

サニーブライアンが春2冠を制した混戦クラシックの中心にいた1頭、ランニングゲイル。父は9歳でAJCC3着に入るなど長く活躍したランニングフリーで、数少ない産駒の1頭だった。
地味な血統ということもあり、デビュー戦は4番人気での出走。中団からレースを進めるものの、勝ち馬から2.7秒も離された8着に終わる。
2戦目はソエで競走中止、3戦目7着、4戦目5着といいところなく敗退。
4戦目までは1000m、1200mの短距離戦を使われたが、5戦目に芝の1800mに出走。このレースから武豊騎手を鞍上に迎えた。
すると、これまでとは行きっぷりが異なり、ハナを切ってレースを進めると、2着ダブルストームに7馬身差をつけ圧勝した。

続く黄菊賞はアサカホマレの2着に敗れるが、3戦目の京都3歳Sでは、当時ナリタブライアンが保持していた3歳レコードタイムを破る1分47秒2の好時計で勝利を収め、OP初勝利。

朝日杯3歳Sはクリスザブレイヴ、マイネルマックス、アサカホマレ、セイリューオーに次ぐ5番人気での出走。中団からレースを進め、勝負所の3,4角で勝ち馬マイネルマックスによる不利を受け、4着に敗退。

年明け初戦の若駒Sは単勝1.3倍の断然人気に推されたが、エリモダンディーに切れ負けし、2馬身差の2着に敗れる。

次走の皐月賞トライアル、弥生賞には朝日杯3歳S3着のエアガッツ、新馬戦を圧勝して話題を集めていたサイレンススズカに次ぐ3番人気で出走。スタート前、サイレンススズカがゲートをくぐってしまい、外枠発走になるアクシデント。ランニングゲイルは後方2番手あたりをじっくりと追走した。3角から徐々に進出すると、4角手前では既に先頭に立つ。さらに直線に向く頃には後続にセーフティリードを取っていた。かなり早めのスパートからのまくりだったが、そのまま2着のオースミサンデーに3馬身差をつけ圧勝した。

前哨戦での勝利を受け、皐月賞ではメジロブライトに次ぐ2番人気に推された。しかし、道中不利を受ける場面もあり、もうひとつ伸び切れず6着に終わる。

その後、プリンシパルSでは直線追い込むも、勝ったサイレンススズカにクビ+クビ差届かずの3着。

ダービーでは皐月賞と同じく2番人気で出走し、好位からなだれ込んだが、5着が精一杯で春のクラシックを終える。

ダービー後、放牧先で骨膜炎を発症。クラシック3冠目の菊花賞へは出走ならなかった。

復帰戦は、古馬になって4月の大阪杯。武豊騎手がエアグルーヴに騎乗したため、松永幹夫騎手が手綱をとったが、後方からいいところなく、7着に敗れる。

一叩きされたオーストラリアTでは再び武豊騎手に手綱が戻り2番人気に推されるも、8着。
次走のテレビ愛知OPで2着に入り、復調の兆しを見せたが、続く七夕賞では1番人気で14着に大敗する。

その後、札幌に遠征し、道新杯(OP)に出走。好位から抜け出し、トーセンホーライに1馬身差をつけ優勝。弥生賞以来、約1年半ぶりの勝利を挙げた。

しかし、その後は毎日王冠7着、天皇賞・秋7着、マイルCS11着と一線級相手にまったくいいところなく敗退。

暮れの愛知杯では3番人気に推されるも5着に終わる。
年明けの京都金杯で4番人気9着に敗れると、トモの骨折が判明。休養に入る。

結局、翌年都大路Sで復帰するまでに1年4ヶ月もかかってしまった。15番人気15着でレースを終えると、中央での登録を抹消された。

中央での登録抹消後は公営・川崎に転厩するもダート適性はなく、2桁着順を繰り返し、1勝も挙げることなく、現役を引退した。

■引退後
引退後は、種牡馬入りすることは叶わず、生まれ故郷の高橋農場で余生を送っている。
父ランニングフリーも高橋農場で繋養されていたが、2006年に死亡している。